松山句碑めぐり(和気@)

愛媛の観光 > 目次 >  松山句碑めぐり  その1   その2
 
 
【01】太山寺町 太山寺(和気)

【01】法燈未絶太山寺下人皆愛至誠歳正氣旺洋矣何處雛??聲(小原六六庵)

2009年6月16日行軍D

小原六六庵(1901〜1975)は昭和の書道家、漢詩家。名は清次郎。六六庵はその号。 別に方外、六六葊と号したという。


【02】菎蒻につゝじの名あれ太山寺(正岡子規)

2004年9月5日行軍A(俳句の里・城北(7)、旧城北(13))


【03】十月の中能二日や柳つ可(黒田竹翁)

【04】八九間空へ雨ふる柳可南(松尾芭蕉)

2004年9月5日行軍A(俳句の里・城北(8)、旧城北(14))

この上に太山寺がある。最後の階段がやけに急坂に見える。が、さしあたり、我々が登っていく理由もないようだ。太山寺は四国八十八箇所 巡りの寺である。そこからさらに山を登っていくと、経ケ森という山を越えて、松山観光港方面へと抜けることができるそうだ。かつては、松山観光港に上陸し た巡礼者はその道を越えてここへやってきたというが、道路が整備された今では利用する人がいるとは思えない。



【05】鳥は飛ばねばならぬ人は生きねばならぬ(坂村真民)

2009年6月16日行軍D


【06】念ずれば花ひらく(坂村真民)

2009年6月16日行軍D

またかい?となってしまう。



【07】春雨や王朝能詩 タ今昔(松根東洋城)

2004年9月5日行軍A(俳句の里・城北(6)、旧城北(12))

松根東洋城は一八七八年東京築地で生まれる。本名豊次郎。松山中学、第一高等学校、東京大学を経て、明治三八年京都帝国大学法学部を卒業。松山中学では五年生のとき夏目漱石が英語教師として同校に赴任、以後指導を受けたという。



【08】道ゆずる人を拝ミ天秋遍路(村上杏子)

2004年9月5日行軍A(俳句の里・城北(5)、旧城北(11))

村上杏史は本名清、温泉郡東中島村(現松山市中島大浦)出身。朝鮮の木浦で新聞記者として働きながら俳句に関心を持ち、高浜虚子に出 会ってから俳誌『かりたご』を主宰するようになったという。その後、愛媛ホトトギス会会長や『柿』の主宰となり、その300回を迎えたことの記念の碑であ ると書かれている。



【09】もりもりあかる雲へあゆむ(種田山頭火)

2009年6月16日行軍D

種田山頭火は好きなのだが、この碑がなぜいたるところにあるの?



【10】月の虫や月の照らざる側も虫(徳永山冬子)

2009年6月16日行軍D

宇和島生まれ。神奈川県平塚市在住。 昭和4年「渋柿」に入門し、松根東洋城(まつね・とうようじょう)に師事したという。


このペー ジのトップへ >>

inserted by FC2 system