愛 媛 の 散 策

 

坊っちゃん列車の時代を巡る

 

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四 漱石と道後温泉行き

 
子規は一〇月六日に夏目漱石と道後温泉へ出かけて、大街道で狂言を見て帰っている。大街道に関しては散策とはいわないだろうから、道後温泉に的を絞ってみる。

散策集の中では二人が汽車で出かけたとは述べられていないが、愛媛大学図書館サイトによると「道後鉄道に乗り」と書かれている。道後鉄道はこの年の八月に一番町〜道後温泉間が開通している。子規も句の中で鉄道に関することが出てくるし、漱石にいたっては小説坊っちゃんの中で列車に関する表現が百年を経た今でも語り継がれているのは周知の事実である。まあ、当時の様子を見れば、鉄道は文明の利器の先端のようなものだから、自然と出てきたとしてもおかしくはないだろうし、別に子規と漱石の「鉄道オタク」度を調べるつもりもない。

道後についた二人は、「温泉楼上眺望」「鷺谷に向ふ」とあるので、多分道後温泉の脇から坂を登って鷺谷へと向かったのであろう。この鷺谷墓地は秋山好古や伊佐庭如矢等の偉人が永眠しているが、当時彼等はまだ現役だった。

伊佐庭如矢は明治二三年に道後町の初代町長となり、三期一二年勤めたから、当時は彼が町長だった。明治二七年に道後温泉本館落成、翌二八年に一番町〜道後温泉〜三津口の道後鉄道が開通しているから、おそらく彼の尽力によるものだろう。また、当時河野家の廃城跡で荒れていた道後公園を整備したりもしている。道後温泉本館改築に関しては、住民から反対があったというが、今から考えれば、彼の功績は大きく、その時代の様子を子規が散策集にあらわしたというのがまた不思議な感じがする。

子規と漱石は鷺谷から宝厳寺へと向かうが、多分山裾をぶらぶらしながら歩いたのだろう。我々も多分二人が歩いたであろうと思われる道を何度か歩いたが、決まって犬に吼えられる。

色里や 十歩はなれて 秋のかぜ(子規)

句碑は宝厳寺の中にある。「道後村めぐり」や「俳句の里巡り」でも巡ることになる。一遍上人誕生の地ということでも有名だが、その下に広がったであろう色里はたぶん当時の面影も失せているのであろう。我々もこの通りを歩くことはなく、さきほどの細い山裾の道から伊佐爾波神社へ抜けることが多い。

色里や浴衣姿の道後哉(かずまる父)かずまるに説明できん?

ここで、二人がどのようなルートで帰ったかは知る由もないが、色里の代わりに大街道で狂言を見て帰っている。我々も道後温泉駅で坊っちゃん列車が待っているようだ。ポポーッ!

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五 今出訪問

 

正岡子規の散策集五編もいよいよこれが最終回になった。子規と道後温泉界隈を歩いた翌日の一〇月七日のことである。この日は人力車で今出の村上霽月宅へと行っている。距離も長いので、私も一緒にその跡を追ってみようか。

愚陀仏庵を出た子規は人力車でまずは正宗寺へと向かう。ここで一宿を誘うのだが、一宿は用事があったらしく同行しない。一〇月二日の石手川散策では、子規は中の川通りを西へと進みながら、途中の蓮福寺で南下している。蓮福寺と正宗寺とはかなり近い。しかも、帰路にも立ち寄った形跡がないから、多分その日は用事がなかったのだろう。が、今出訪問の日はわざわざ正宗寺に立ち寄っている。ということは、村上霽月が子規と同時に一宿を誘ったと言うことであろうか。

正宗寺を一人で出発した子規は「小栗神社のほとりに出づ」と雄郡神社へと立ち寄る。

御所柿に小栗祭の用意かな(子規)

よく考えると、一〇月七日といえば松山地方の秋祭りである。雄郡神社も祭り一色であり、ひょっとすると、村上霽月が子規を誘ったのは、子規がそろそろ東京へと帰るらしいということで、秋祭りに誘ったのかもしれない。

「かねて叔父君のいまそかりし時余戸に住みたまひしかば我をさなき頃は常に行きかひし道なり 御旅所の松、鬼子母神、保免の宮、土井田の社など皆のおもかげをかへずそゞろなつかしくて(散策集から抜粋)」

ここで、いろいろと地名が出てくる。これがどこかを探すのが楽しいのである。が、いきなり「御旅所の松」で行き詰まる。「鬼子母神」が次にあるから、雄郡神社との間にあることは間違いない。「伊予細見」サイトによると、「雄新中学校の近くにあったようだが今はない」と書かれている。まあ、一一〇年も昔の話なのだから、そういうことがあっても仕方ないと開き直る。

じゅずだまや 昔通ひし 叔父が家(子規)

この句碑は鬼子母神堂にある。我々も「俳句の里巡り・城西コース」で一度やってきたことがある。最初はなんと恐ろしい場所かと思ったが、鬼子母とは「安産、子育」の神様だという。「子供のためなら鬼にでもなる」というところか。じゃーなんだい。父親の立場がないではないかとも思う。

「保免の宮」は「愛媛大学図書館」サイトによると、日招八幡神社だという。鬼子母神堂から少し西へ行ったところから一気に南下すると、途中に郵便局があるが、なんともいえない風流な道が一直線に伸び、その向こうに日招八幡神社の森が見えてきた。

次の「土井田の社」については、「伊予細見」サイトによると、土居田の本村公園だという。が、再び北上していかなければならない。この本村公園も児童公園になっている。

そして最後に「三島大明神社」へと行き着く。ここは、本村公園から今出街道へ出ようとすれば目の前に神社の森が見えるはずである。この神社は一度松山市内に出張したときに徒歩で移動中、たまたま見つけた神社であって、その後「俳句の里巡り・城西コース」で再来した。

行く秋や手を引きあひし松二木(子規)

松二木とは余戸手引松のことで、地上五メートルほどのところで二本の松がH型につながっていて、松山市の天然記念物に指定されていた。その松も現在は枯死し、現在はH型部の場所のみが保存されていると言う。

さて、ここで思うことであるが、当時は人家が少なく、神社の森がそこかしこに点在しているのが見やすかったとはいえ、余りに行ったり来たりしているように思う。鬼子母神堂から日招八幡神社へ南下して、さらに本村公園への行軍は余りに無駄が多い。

と、私はそう思っていたのであるが、改めて今出に行った日を考えると、ようするに松山の秋祭りだったということで全ての謎が解けた。確かに、鬼子母神堂隣の寺など見向きもせず、ただひたすらに神社を追いかけたという事実が全てを物語っている。あるいは、神輿が行ったり来たりしているのを見て、思わず人力車の人に「あの神輿を追ってくれ」とくらい言ったのかも知れない。

人力車もいい迷惑である。

そう考えれば、最終目的地村上霽月宅は今出であり、この今出は比較的おとなしい松山の秋祭りの中では勇壮なところを見せてくれており、現在でも松山のケーブルテレビで毎年生中継されている。

「余戸も過ぎて道は一直線に長し(散策集から抜粋)」

三島神社から今出街道へと出るわけだが、その間に伊予鉄道郡中線を渡る。余戸駅のあたりで踏み切りを越えたと思われるのだが、残念ながら余戸駅は明治二九年に営業開始であって、当時はただ鉄路が敷かれていただけだったらしい。

「霽月の村居に至る宮の隣松林を負ひて倉戸前いかめしき住居也(散策集から抜粋)」

ここに出てくる「宮」とは村上霽月宅の隣にある三島神社と思われる。多分相当の賑わいがあったのであろう。村上霽月宅にも次々と訪れる(騒ぎに来る?)客の様子が目に浮かぶようだ。

「庭前の築山に上れば遥かに海を望むべし歌俳薯蕷諧の話に余念なく午も過ぎて共に散歩せんとて立ち出づ(散策集から抜粋)」

村上霽月は多分次々とやってくる客の中に正岡子規を見つけ、ようやくやってきた客人と一緒に今出の海岸へと散歩に出かけている。現在は村上霽月宅から海は遠いのだが、この頃は割と近いところにあったのかもしれない。しかし、私には朝から酒浸りの村上霽月が子規と一緒に歩きながら、酒の発散をしていたか、あるいは次々とやってくる呑み客から一時的に身を隠したかったような気がしてならない。

酔眼に天地麗ら麗らかな(村上霽月)

三島神社に彼の句碑がある。「詩人李白は酒浸りだという意味」なのだろうが、飲んべえはそうして飲む理由を外に求めるものである。そんな村上霽月の横顔が見えてくるようだ。

「夕暮に今出を出て人車を駆りて森某を余戸に訪ふ柱かくしに題せよといはれて(散策集から抜粋)」

ここでいう森某とは「森円月」「森河北」のことらしい。が、実際に旧今出街道を通ってみると判るが、森氏の家が行きに判らないはずがない。多分彼の家の前を通ったところで、時は秋祭りの真っ最中である。森邸も相当な規模の旧家と思われる。多分ここにも色々な人がやってきていたに違いない。森氏から「寄っていかんのか」「いやあ、村上霽月に呼ばれているぞなもし」「そんなら帰りに寄らんかな」往路にそんな会話があったような気がしてならない。

が、多分森邸に着いたのは相当遅い時間だったのだろう。子規も「直ちに某家を辞す」と書いてある。

そこから自宅までは結構な道のりがある。その中で子規が最後に詠んだのが、次の句である。

行く秋や我に神なし仏なし(子規)

子規の病は相当進行していたようで、この後松山を離れたのが最後に、再び松山の地を踏むことはなかった。

この句であるが、当初は帰りの車の中で体調がすぐれず、苦痛をこらえながら詠んだ句だと思っていた。が、多分子規の乗った車の周りは、祭りの余韻に浸る人々の笑い声、叫び声、あるいは喧嘩なども聞こえていたのではないか。そうした祭りの神様を祝う人々の喧騒の中で、一人孤独感に浸りながら、「我に神なし・・・」とぽつりと述べた、そんな風景画が浮かぶのである。

とまあ、フィクションとはいえ、勝手に正岡子規の心情を推測してみたわけであるが、その後子規は一〇月一九日に松山を出発して、二度と松山の地を踏むことはなかったことだけは事実である。

西日受け子規をたどりて今出へと(かずまる父)西って、極楽浄土か?

それから一一〇年が経ち、松山の街も変わってしまった。今年は夏目漱石が小説「坊っちゃん」を発表して百年になる。百年前の松山の街を想像するのは容易ではないが、実際にその場所に立って、自分なりに思い描いてみると、それこそ「狸も狐もなく、天狗伝説も過去のものになった」現在の松山は今後どのような方向へ向かっていくのだろうか。

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