愛 媛 の 散 策

 

坊っちゃん列車の時代を巡る

 

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二 御幸寺山麓紀行

 
柳原極堂と前日石手寺へと歩いてきた子規は、翌二一日に柳原極堂、中村愛松、大島梅屋の四人で御幸寺山方面へと散策している。「稍曇りたる空の雨にもならで愛松碌堂梅屋三子に促され病院下を通りぬけ御幸寺の麓にて引き返し来る」とある。明治三六年の地図では東雲神社の南に松山病院という病院があるが、昭和七年には学校マークになっている。この学校が今の東雲学園かもしれない。

牛行くや毘沙門阪の秋の暮(子規)

この句碑はロープウェイ街と八坂通りの交差点にある。この場所は松山城の鬼門にあることから、毘沙門天を祀っていたという。ロープウェイ街からずっと登ってきたこの坂は、ここから上一万方面への方向が低いながらも分水嶺となる。

狸死に狐留守なり秋の風(子規)

狸といえば六角堂常楽寺が出てくる。ここの狸はドクロで人をたぶらかしたという伝説がある。松山には狸伝説が多く、それだけでひとつの本になってしまうほどだ。そういう伝説の時代は去ってしまったということなのだろうが、ここで狐の立場がよく判らない。

山本や寺ハ黄檗杉ハ秋(子規)

ここでいう山は目的地御幸寺山、黄檗(おうばく)宗は千秋寺のことで、句碑は千秋寺の中にある。道後村めぐりで俳句の里巡りで、一体我々は何度ここへ来たことだろう。明治四四年一一月にはこの寺の南の現在でいう樋又通り付近に伊予鉄道が千秋寺停車場を置いた。松山電気軌道時代の六角堂と同様に停車場の名になるくらいだから、相当の力を持っていたに違いないと思う。だが、その停車場も昭和二年に現在の城北線に線路が移されて消えてしまった。

秋の水天狗の影やうつるらん(子規)

天狗といえば御幸寺山のことだが、ここへ来てようやく天狗の名が出てきた。場所からいえば、六角堂から護国神社までの間、正面に望みながらいやでも目に付くはずだが、通り越して、千秋寺を過ぎてから詠んだというのも気になる。

秋の日の高石懸に落ちにけり(子規)

高石懸とは松山城の北麓の廊をいうのだそうだ。それで松山市内にそういう苗字の人が結構いるのか、と妙に納得してしまう。

草の花練兵場は荒れにけり(子規)

現在の愛媛大学一帯は練兵場だった。夏目漱石の小説坊っちゃんの中でも「兵営も見た」と書かれている。この句碑は平和通二丁目の歩道句碑群のひとつにある。句碑の前に立つと、当時の情景が自分なりに浮かんでくるような気がしてくる。

人もなし 杉谷町の藪の秋(子規)

杉谷町は東雲神社から城の北麓の一帯をいうらしい。現在はアパート、マンション群が立ち並んでいる。子規はその他にも「杉谷や山三方にほとゝぎ須」「杉谷や有明映る梅の花」という句を残しており、いずれも平和通一丁目の句碑群にあるのだが、なぜか散策集に載せられたこの句については句碑がない。

汽車を見て夏の山見て平和哉(かずまる父)平和通の句碑群は最終的には本町までどどっと並べる構想があるって本当?

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三 石手川堤紀行

 

正岡子規は二回目の散策から一一日後の一〇月二日に、一人で石手川方面へと出かけている。この日の散策集を読んでいると、妙に「鼻血」とか「一滴」とかいう言葉が出てくる。松山へは療養のために戻ったとされているが、子規の断末魔の声が響いてきそうだ。

「寓居を出て藤野に憩ひ大原にいこひそこより郊外に出でんと中の川を渡り八軒家を過ぎ汽車道に添ふて石手川の土手に上る道々の句」

この日の子規は、三番町の叔父藤野漸宅へ行った後、さらに湊町の叔父大原観山宅へ寄って、そこから中の川通りへ出て西へと向かっている。

朝顔や裏這ひまはる八軒家(子規)

真宗の 伽藍いかめし 稲の花(子規)

後者の句碑はこれから子規が向かう先である石手川沿い「相向寺」にある。が、「真宗の伽藍」とは蓮福寺のことである。相向寺と蓮福寺は同じ本願寺派の真宗で、ここから南へと伸びる道が八軒家という。

汽車道をありけば近し稲の花(子規)

「浦屋先生村居の前を過ぎりて」

花木槿 雲林先生 恙なきや(子規)

蓮福寺から八軒家を南下すると、すぐに伊予鉄道横河原線に出る。汽車道を歩けばとなっており、当時の列車密度は低いながらも危ないなあ、と思っていたものであるが、地図上で追って見ればなんてことはない。現在でも線路の両側に道が寄り添っている。

浦屋雲林邸は現在の柳井町にあるNTTの社宅あたりにある。敷地面積七〇〇坪に二一〇坪の池があったというから、それだけ広い屋敷なら当時の地図に出ているはずだと思って、明治三六年の古地図を見てみると、集落の中にいかにも大きな屋敷という形が見えるのである。屋敷であろうという場所は現在の中の川通りにある「中華料理楽山」から松山市保健センターへと伸びる二車線道路とその東側にある柳井町商店街にかけてのかなり広い範囲に及んでいるからこれだと思うのだが、もしここならばNTTの社宅は全く関係がなくなる。松山市文化財課が出している例の「俳句の里巡り」では、松山市保健センターより西側に浦屋雲林邸があるとしている。ひょっとしたら、私が古地図を見て「ここだ」と思った場所は違っていて、浦屋雲林邸並みの敷地を持つ家が別にあったということだろうか。

それと、もうひとつ気になることがある。子規は散策をしているわけだから、まっすぐに歩く必要はないのだが、それにしても蓮福寺に立ち寄ったと言うのがよく判らない。

湊町の大原観山宅から中の川に出れば、「俳句の里巡り・城下コース」の二八番「正岡子規御母堂令妹邸跡」、二七番「正岡子規生い立ちの家跡」が並んでいるから、多分その場所を横目で見ながら通過したと思われる。が、蓮福寺に寄った理由は何だろうか。当時の松山市内は多分歩いていれば、住宅密集地と言えども神社仏閣などは樹木で大体は判っただろうと思う。私が言おうとしているのは、蓮福寺に寄りながら、なぜそこからもう百メートル歩いて法龍寺に寄らなかったのか、ということである。この法龍寺は元々「末広学校」という小学校で、子規もここで学んだというし、なんといってもここには昭和二年までは正岡家の墓地があったのである。その寺を無視したのがよく判らない。

さらに、大原観山宅から浦屋雲林邸までは中の川を越えればすぐ南へ一直線である。ここはどうしても、子規は蓮福寺に用事があったのだろうか。そのわざわざ用事があったのであれば、そこで子規が詠んだ句を、本願寺派の真宗とはいえ、わざわざ相向寺に建てたりするのか?と言う気がしてならない。

さらりとかわすならば、子規は本当は大原観山宅からまっすぐに石手川へと出たかった。その方向に浦屋雲林邸が見える。が、中の川通りに来たところで、正岡子規御母堂令妹邸跡と正岡子規生い立ちの家跡があったから、ふらふらと西の方向へと向かった、そこでふっと我に返ったところが蓮福寺であって、ここで休んで浦屋雲林邸経由で石手川へと向かったという解釈はいかがなものだろうか。

土手にそふて西すること二三町焼場のわたりより監獄署の裏に出て薬師の西より再び八軒屋に返る(散策集)

焼場というのは、明治三六年の地図によると現在の県立中央病院の通りを南下して石手川を渡る末広橋の右手付近に「市立火葬場」というのがあり、その川沿い南西側には松山伝染病院があった。当時の地図を見ると、末広橋、旧国道三三号の立花橋、八坂通りを南下した中村橋、旧国道一一号の新立橋、湯渡橋とあるが、いずれもハイウォーターを満たすような橋ではなく、河川堤から河原へと降りながら、できるだけ短い橋をかけていたようだ。中村橋と湯渡橋にいたっては、どう見ても沈下橋である。百年の時を経て、瀬戸大橋などを見ていると日本の橋の技術は進歩したものだと思う。

話が脱線したが、子規は多分立花橋と伊予鉄道の鉄橋の間あたりから石手川の堤に出たと思われる。そして、末広橋を横切っているわけだが、そうするとどうしても先の相向寺が見えてくるのである。子規は本当に相向寺には寄らなかったのだろうか。にもかかわらず、蓮福寺の句碑をこちらへ建てることに誰も異論がなかったのだろうか。

寺清水西瓜も見えす秋老いぬ(子規)

我見しより久しきひょんの茂(子規)

火葬場を後にした子規は、現在の県立中央病院の場所にあった松山刑務所を通って、薬師寺へと向かう。そこで詠んだ句が上の二句である。いずれも薬師寺に句碑がある。そして、八軒家わ通って帰宅したようだ。この日の散策は私にとっては、現代でも結構楽しめた。

過去を追い自己満足の麦酒哉(かずまる父)なんじゃそりゃ?

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