愛 媛 の 散 策

 

坊っちゃん列車の時代を巡る

 

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三 古石手川を推測する

 
先ほども申し上げたとおり、発掘調査などを通じて古石手川がどこを流れているのか、地下水脈がどこを流れているのかということを言うつもりはない。過去からの言い伝えから、現在の街に置き換えて、どのあたりを流れていたのかと思うだけである。

まずは、古石手川本流である。一説によると、現在の湯渡橋から二番町あたりを経て出渕(現在の南堀端の西側)方面へと流れていたという。ただ、二番町あたりは下水道工事も進み、かつての流れを探る水路などもみることはできない。松山市や今治市では下水道担当部局の中に河川担当部局がある。一級河川、二級河川という通常の河川は国又は県が管理し、それ以外の準用河川や法定外水路は市町村が管理している。特に平成一七年度からは法定外水路は市町村の財産になったから、そのような水路が下水道管に姿を変えていくこともなんらおかしくはない。が、水路を探していこうとするものにとってはかつての水路跡がさっぱり判らなくなるのである。

もっとも、個人の趣味で下水道整備をどうのこうの言う方が非常識ではある。

ということで、どう考えても城南方面の古石手川探しは無理ということで断念して、城北方面へと目を向けることにする。さきほども述べたとおり、宮前川は愛媛大学理学部の北東部、つまり県道松山北条線の旧道の橋あたりから下流が二級河川となっている。

ところが、面白いことにこの宮前川をずっと遡っていくと、清水町二丁目で宮前川の方が北へと折れ、水路の方はそのまままっすぐ松山北高校の南側方面へと続いているのである。この水路は愛媛大学南側と松山赤十字病院の南側と伊予鉄道城北線の北側に挟まれたところを東方向へと伸びていく。そして、松山赤十字病院の東端から一度北上した後、道後一万から湯築城跡方向へと消えていく。この間に県民文化会館があるのだが、県民文化会館では北側に水路を付替え、そのまま湯築城の堀につながっている。つまり、湯築城から道後一万、松山赤十字病院と愛媛大学南側を経て宮前川に合流するのである。

ひょっとすると、この水路が古石手川の名残ではないか?とも思う。しかし、矛盾する点もある。先ほど述べた「松山赤十字病院の東端から一度北上した後」というところであるが、実はその場所はよくみると、水路が西方向の松山赤十字病院方面と南方向の平和通り方面への分水路になっているのである。つまり、「古石手川は湯渡橋付近から松山市内へと流れて、一部は城北へと・・・」という国土交通省の図と完全に矛盾するのである。

それはそうである。第二章で松山電気軌道と道後鉄道が大街道から上一万方面への線路敷設を考えたときに、「六角堂から東雲神社口までを直線で結んだ線が低いながらも分水嶺になっている」と述べた後、そのまま現在の南町へと伸びる道路が尾根上に登っていると言ったはずである。だから、人工的に水路を掘らない限り、湯渡橋方面から城北方面へと川が流れることはありえないと思う。

私自身が昭和の末期に松山の人から「かつての石手川は今の平和通を流れていたという説がある。」と聞いていたので、そういう観念ができてしまっていたのだが、いわゆる足立重信が河川改修する以前に流れていた古石手川は湯渡橋から城南を流れ、岩堰から流れる川の一部は御手洗川となって道後を抜け、また一方は湯築城付近から平和通り方面へと流れ、宮前川となって下流域へと流れる。つまり平和通を流れていたのは「古宮前川」であって、足立重信の河川改修により、道後方面への流量が減少して、今の城北地区の基礎ができた、と考えたのだが、いかがなものだろうか。

川改修し今は青田の城下かな(かずまる父)判るような判らんような・・・

が、なんだか坊っちゃん列車の時代の松山を巡ることから脱線してしまったような気がしないでもない。えーい、気になったことを全て述べただけじゃ〜!

 

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四 正岡子規散策集巡り

 

一 石手寺紀行

 
私の坊っちゃん列車の時代を巡る過去の旅も最終章になった。最後はオーソドックスに正岡子規の時代の松山を想像していくことにしてみようと思う。

といっても、お堅い話をするつもりは毛頭なく、今までどおり、自分勝手な意見を述べる予定である。従って、少々大げさに「○○ではなかろうか?」と自己主張し、批判を受ければ「これはフィクションです」と都合の良い言葉を盾にしようというものである。

さて、正岡子規は明治二八年に発病、療養後、八月二五日に松山へ帰省し、同年四月に松山へ英語教師として赴任していた夏目漱石の愚陀仏庵に転がり込んだ。そして、松山を離れる一〇月一八日(出港したのは翌朝)までそこに住みついたのだが、その九月二〇日から一〇月九日までの間に五回松山市内を散策して、その内容を「散策集」に納めている。

その散策の内容であるが、

一回目:九月二〇日 石手寺紀行

二回目:九月二一日 御幸寺山紀行

三回目:一〇月二日 市内南部石手川堤紀行

四回目:一〇月六日 道後鉄道に乗って道後温泉

五回目:一〇月七日 今出の村上霽月邸訪問 となっている。

では、実際にこの散策集に沿って、現在の松山の街を歩いてみることにしよう。一体どういうことになるか。

九月二〇日午後に柳原極堂と愚陀仏庵を出た子規は、「玉川町より郊外に出てける見るもの皆心行くさまなり」と記している。

現在の一番町は裁判所あたりから少し北へとカーブし、八坂の交差点からはそこから真東へと分かれる細い道がある。この道は平成七年の地図を見ると御宝町となっている。さらに、現在の二番町は北京町、三番町は唐人町と書かれている。このうち御宝町と北京町の間にある道が玉川町で、勝山町あたりは完全に人家が切れていて、その先に商業学校がある。

秋晴れて見かくれぬべき山もなし

秋の山 松欝として 常信寺

草の花少しありければ道後なり

高縄や稲の葉末の五里六里

砂土手や山をかざして櫨紅葉(以上五句とも子規)

この順番で読まれているが、最後の「砂土手」が現在の松山東高校西側というから、これらは全てそれまでに読まれた句ということになる。「秋晴れて見かくれぬべき山もなし」というくらいだから、北側にはまさに山々がずらっと並んでいたのだろう。

というわけで、場所は少々離れるが、湯渡橋のあたりからこれらの山が現在見えるかどうか調べてみる。ずらっとビルが乱立しているが、それでもその影から背後の山々が少々は望まれる。道後らしき場所はなんとなく判るが、常信寺については、さっぱり見当がつかない。仕方がないので、常信寺を遠望したつもりで石手川の土手を行く。

蜻蛉の御幸寺見下す日和哉(子規)

この御幸寺山というのは、山の形のせいか、一度気になると結構松山市内のどこにいても見える山である。道後方面からだとビルが乱立する中心部に位置する松山城よりも御幸寺山の方がよく見える。が、その御幸寺山も石手川の土手沿いからだとビルの隙間から出なければ望むことができない。日常何気なく見るこの御幸寺山には天狗が住んでいるという伝説があるが、それが信じられた時代はなんとなく自分の経験からもそう昔ではないような気がする。そういう伝説が消え去って、現代社会は何かを失ってしまったのではないかという気がしないでもない。

石手のバス停を左折すると、すぐに石手寺へとでるのだが、ここにはへんろ橋があつて、現在「道後村めぐり」では、ここに夏目漱石の句「霞む日や巡礼親子二人なり」のスタンプがある。この橋を遡っていけば、かつて足立重信が川を付け替えたという岩堰がある。

さて、子規はいよいよ本日のメインともいえる石手寺へとやってくる。子規はここで一一句詠んでいるのだが、その中で気になる句を二つほど。

人もなし駄菓子の上の秋の蝿(子規)

現在石手寺山門の前にはずらっと出店がある。が、この句では出店に客がいないのか、出店の主人がいなかったのか、それは判らないが、かずまるはここの焼餅が大好きで、一気に五枚は食べてしまう。子規が「山門の前の茶店に憩ひて一椀の渋茶に労れを慰む」と言いながら飲んだであろうお茶とは我々は縁はないが、ここへ来るたびにここの焼餅を食べることが恒例になっている

見あぐれば塔の高さよ秋の空(子規)

石手寺といえば五重の塔が目に付くのだが、最近の石手寺といえば、常光寺山頂にある弘法大師の像であろう。高さ一六メートル、弘法大師のシンボルである「筆」の長さ三メートルという巨大像である。昭和六〇年頃に建てられたというから子規の時代とは関係ないが、子規自身「五十一番の札所」と言っており、石手寺は今も昔も松山市中心部に近い寺としては格別の寺だったのだろう。

「寺を出てゝ道後の方に道を取り帰途につく」「御竹薮の堀にそふて行く」と記して子規は帰途についている。

古濠や腐った水に柳ちる(子規)

「御竹薮」「古濠」とあるから、これは現在でいう湯築城跡と思われる。「腐った水」というのは、水が澱んでいるということだろうか。実際今でも堀には水門があるから、堀の水がそのままどどっとは城北方面へは流れていってはいないのだろう。が、現在ある水門から流れる水路がそのまま城北方面へと流れ、最終的には清水町電停付近で宮前川と合流する。現在でも巨大な地下水脈を持っているかもしれない。

秋の山御幸寺と申し天狗住む(子規)

この日の散策を始めたときに、湯渡橋までの間に一度御幸寺山に関する句を詠んでいる。確かに、現在でも道後からは結構目立つ山であるし、山を見やりながら帰ったのであろう。ちなみに、この句碑は平和通一丁目の歩道句碑群のひとつにある。

稲の香や野末ハ暮れて汽車の音(子規)

旧道後鉄道が一番町と道後温泉を結んだのは明治二八年八月と言われている。従って、このときはまさに汽車が走り始めたときである。その後道後鉄道は明治三三年に伊予鉄道に吸収され、明治四四年八月に同区間を電化している。

子規が歩いて帰ったときには、一番町から勝山町を抜けて、松山地方気象台のあたりからまっすぐ北へと抜け、道後温泉駅には現在とは逆の方向から乗り入れていた。勝山町あたりから道後温泉にかけては、一面の原っぱだったというが、どのような風景だったのか想像もつかない。

汽車の音 夏の空へと鳴り響く(かずまる父)なんだかひねりがない!

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