愛 媛 の 散 策

 

坊っちゃん列車の時代を巡る

 

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第二章 伊予鉄道の廃線巡り

 

一 大街道から道後温泉(旧道後鉄道跡)

 
これほどの歴史を持つ伊予鉄道だが、古地図を見ていると、結構路線の変更がある。県庁前東側や本町三丁目札ノ辻付近では妙にクランクカーブがあったりするし、大街道から道後温泉間も現在とはかなり異なっている。まずは、旧道後鉄道跡に沿って道後温泉まで行ってみたいと思う。

大街道といえば、松山一の繁華街である。道後温泉は市内電車で大街道から十分ほどである。温泉街とすれば松山市の中心部から本当に近い位置にある。以前は上一万から先の道が細くなっていたこともあって、そこを過ぎると何だか街中を離れて温泉街に近づいている、と一瞬でも感じられたものだったが、道路改良が進んで、今では道路が広いまま道後温泉駅へと到着してしまう。

この大街道から道後温泉までの片道十分の間に路線が二つあったということは有名な話である。ひとつが坊っちゃんも乗った道後鉄道で明治二八年八月に開業、もうひとつは松山電気軌道で明治四四年に開業している。その後、前者は明治三三年、後者は大正一〇年に伊予鉄道と併合している。

さて、ここからは松山市の地図を参考にしていただきたい。本当は古地図も含めて、ここにどどーんと地図を掲載したいのだが、それには著作権の壁がある。承諾願いを提出したらいいのだが、めんどくさいから、この自費出版が売れて、私が少々有名になって、本格的に出版するときにはちゃんと掲載予定である。従って、いつになるのかは全く未定である。それまでは私のデフォルメされた地図を見ながら、ご自分で地図を実際に見ながら読んでいただきたい。市街地図で十分だが、住宅地図ならなお良い。インターネットに接続できる環境をお持ちならば「MapFan Web」を利用すればよいと思う。

松山市街地の古地図を見ると、大街道を出発して、現在の八坂通の交差点を過ぎると、まもなく人家が切れる。勝山町交差点は多分原っぱだったのだろう。ただ、それにしても大街道から勝つ山町まで線路が結構くねっているものだと思う。その理由はよく判らないが、少なくともそれが現在の一番町が実はかなりカーブしている理由なのだろう。

現在の市内電車は、そこから左折して上一万方面へと向かうが、当時は勝山町電停付近に御宝町の駅があって、そのまま愛媛銀行本店を突き抜け、その裏手にある細い道路へと線路は伸びている。

勝山町の交差点から松山地方気象台までの細い道は、ゆるやかな弧を描いている。現在の松山東警察署あたりには、古地図を見ると昭和7年の地図を見ると「農業学校」の文字が見える。だから、現在松山東警察署前の電車通りには「愛媛農学教育発祥の地」という碑が建てられている。

道後鉄道はその細い道をそのまま北上し、上一万から道後温泉へと続く現在の電車通りとは直角に突き抜ける。すると、今度はなだらかに道後温泉の方向へ向かって右カーブを描く。古地図に描かれている路線どおりなのであるが、電車通りから二百メートル少々北上したところで、行く手には駐車場が立ちはだかり、道が途切れる。道後温泉まであと六五〇メートルほどのところだ。

現在は道後温泉を出発すると、一度南東方向へと向かって、道後公園前から西へと向きを変えているのだが、当時は道後温泉からまっすぐ西方向へと向かっていたわけである。

さて、ここからが私の説である。道後温泉の留置線からまっすぐ西へ向かう細い道路があるが、この道が俳句の道、つまり県道松山北条線をわたったところに愛媛県身体障害者福祉センターがある。道後温泉の留置線からここまではかつては線路が敷かれていたことが容易に想像できる。で、この福祉センターの北側にある細い道は五〇メートルほど西へ行くとわずかに南へ弧を描いているのが判ると思う。

この南へ弧を描くところと、先の道後温泉まであと六五〇メートルほどで途切れた駐車場とを、若干弧を描きながら結んで見ると線がつながることに気づくと思う。

多分、ここにかつての道後鉄道があったんだなあと思いながら、かずまると二人で歩いていくと、なんと面白いものを発見した。さきほどの結んだ線の上にかかるように、斜めに建てられた家があるのである。「MapFan Web」でもはっきりと判るはずだ、というより、私自身がそれを見ながら発見したのである。昭和四九年の航空写真を見てみると、なんとこの斜めの家がくっきりと見え、周りは一面の原っぱ(もしくは田んぼ?)なのである。多分伊予鉄道の廃線跡を売却したのだろうと思うのだが、個人の家でもあり、あんまり騒ぎ立てると申し訳ないから、これはこれ以上詮索しないことにする。

が、こーんな発見をしたりするから、散策はやめられないんだ!(本当に騒ぎ立てるつもりはないのか?)

失礼!つい取り乱してしまいました。本気になれば、法務局に行ってそのあたり一帯の公図をとってくればよいのだろうが、そんなことをしていたら、いくらお金があっても足りないので、想像だけで終わらせる。だからフィクションだと開き直っているのである。

なお、この道後鉄道は、一番町(現在の大街道)を出ると、途中勝山町付近に「御宝街」、上一万東側約百メートルのところにある信号機北側コンビニあたりに「一万」そして終点道後温泉の停留所があったようである。

青田風いつしかビルの谷間へと(かずまる父)おそまつ!

 

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ニ 道後温泉〜大街道〜古町(松山電気軌道)

 
大街道から道後温泉までの区間で、道後鉄道を吸収した伊予鉄道と松山電気軌道の二つの会社が壮絶な乗客の奪い合いをしていたのは有名である。それにしても、大街道から道後温泉までは市内電車に乗れば十分ほどである奪い合ってメリットはあるのか?と思うが、現在存続している伊予鉄道の。社史からすれば「松山電気軌道は伊予鉄道に対する怨念だけのために言うことになるのであろう。実際、伊予鉄道は水深の足りない三津・・・」と港に見切ったのではないか。そして、大型船の発着できる高浜を新たを早々な点にしようと高浜まで路線を延長したものと考えている。伊予鉄道海の拠はそうだが、先見の明ということでは特に優れていると思うし、それ自現在も体はなかったはずである。が、これが三津の街に没落という危機感をに誤り与まった。伊予鉄道をよく思わない人々が立ち上げた会社が「松山電えてし気軌道な訳だから、安定経営や地元の産業発展などというよりは、おそらく伊予鉄道憎し」というところだったのだろう。

こちらの路線は、道後鉄道の明治二八年開業から遅れること一六年の明治四四年に開業している。すでに道後鉄道は伊予鉄道に吸収されている。

一番町(現在の大街道)を出ると、しばらくは道後鉄道と併走し、八坂通りの交差点を越えて少ししたところから、左折して現在の松山東警察署前まで一気に斜めに突っ切っている。この場所は地図を見れば一目瞭然で、八坂交差点東側から勝山町を経て松山東警察署までの現在のルートを見事なまでにショートカットしている。なお、現在の電車通りに合流するあたりに「六角堂」停留所があり、こちらはここが一番町から道後温泉までの唯一の停留所だったようである。

その先は、上一万交差点で東に進路をとるのだが、上一万交差点で道後温泉方面から勝山町方面へと左折する場合に、かなり大きな左折レーンがあるが、この大きなカーブがかつての路線のカーブだったようだ。

なお、その先の信号付近で道後鉄道と交差していたはずなのだが、過去の写真などを見る限り、松山電気軌道の方がオーバークロスしている。そこからはほぼ現在の路線と同じ場所を道後温泉まで伸びている。それにしても、一番町から道後温泉までは二路線が競合し、発車間際には双方の駅員が鈴を鳴らして壮絶な客の奪い合いをしたという。

大正一〇年に松山電気軌道を吸収した伊予鉄道は、まず松山電気軌道の一番町〜道後温泉間を一旦休止したが、その後大正一五年に一番町〜六角堂間を勝山町経由に切り替えて復活させ、同時に旧道後鉄道の路線を廃止して現在にいたっている。

なぜ伊予鉄道はわざわざ一番町〜六角堂間を勝山町経由に切り替えのか。六角堂に住み着いていた狸に化かされる人々が続出したから、路線を切り替える必要ができたとはとうてい思えない。

実際には、昭和二年に城北線の線路が現在の路線に切り替わっているから、それをにらんで、一旦松山電気軌道側を休止して、高架橋を撤去し、松山電気軌道と鉄砲町経由の城北線に直結しようとしたと考えるのが無難であろう。

では、六角堂から大街道までの路線を付け替えた理由は何だろうか。ここで私の推測が炸裂する。これは当時の車両能力からみて勾配を緩和するためだったのではないかと、実は疑っている。六角堂から勝山町方面や元の松山電気軌道跡の道路を見てみると判るのだが、かなり急坂になっている。現在の勝山町〜警察署前〜上一万間もかなり登っているのは、かつてかずまるを自転車に乗せて坊っちゃん列車を追っかけた経験上判っている。なにしろ、道後温泉から上一万を経て勝山町のあたりまで、下ってくるときのペダルの軽かったこと。

一番町から道後温泉までは双方ともすぐに集落が切れ、あとはなんにもない原っぱになっている。その気になれば一直線で結んでも良かったはずなのだが、道後鉄道も松山電気軌道もなぜか「Sカーブ」を描いている。大街道付近の標高は約二六メートル、道後温泉駅付近では約三八メートルである。
標高差約一二メートルをどう考えるかであるが、あるいは標高よりも坂の形かもしれない。標高三〇メートル線を見ると、六角堂のあたりを頂点として勝山町方面が底になっている。つまり、道後鉄道は東側から勾配を緩和するように登り、松山電気軌道は同じ坂を最短距離で結んでいるから当然勾配がきついはずである。ちなみに、六角堂から東雲神社口までを直線で結んだ線が低いながらも分水嶺になっている。

次に、標高三五メートル線であるが、面白いことに道後公園前から見て南町電停に向かって低いながらも半島状に丘が伸びているのである。具体的に言うと愛媛大学附属小学校から愛媛県総合社会福祉会館、県民文化会館、道後温泉駅西側留置線が大体の標高三五メートル線なのである。つまり、道後鉄道は六角堂東側までの坂と同様、勾配を緩和しながら登り、松山電気軌道は坂に向かって一気に駆け上っていったことになる。もっとも、松山電気軌道とすれば、その手前、つまり上一万東側で道後鉄道をオーバークロスする必要があったから、六角堂から上一万へ向けて更に上り勾配を続け、道後鉄道を越えた後、むしろこの坂がオーバークロス後の上り勾配の緩和になったとも考えられる。で、道後公園前電停付近が分水嶺になって少々下りながら道後温泉駅へと到着するのである。それが証拠に、かつて復活後の坊っちゃん列車がNHKで紹介されたとき、客車を手で押しているのを見て、案内役となったN運転士が「ここは向こう側に向かって若干下っているんです」と説明していたが、まさにそのとおりであるようだ。

松山電気軌道は最初から電車を走らせていた。が、道後鉄道は松山電気軌道が走り始めたときには既に電化していたとはいえ、当初は非電化であった。これが線路敷設の要因になっていると考えてよいと思う。

結論としては、六角堂から大街道までの坂は電車といえども、当時の能力では少々厳しかった?

ということになるのだが、これが今だったら、単に都市計画上の問題で片付けられてしまうんだろうなあ、と思ったりもする。が、大正末期だしなあ。

汗ぬぐい汽車追った坂が懐かし哉(かずまる父)吹き出る汗に、それが「地球温暖化」の原因だと言われたりして・・・

さて、松山電気軌道は一番町〜道後温泉間だけの路線では終わらない。実は道後温泉〜一番町〜古町〜三津という実に壮大な(?)路線であった。この松山電気軌道の路線、一番町から古町までは次のようなところを走っていた。

一番町から本町三丁目までは現在の城南線と本町線を走っているのだが、裁判所と県庁の間でクランクカーブがある。また、本町も当初は道路の真中ではなく、堀の近くを走っていたようだ。

それと面白いのは、本町三丁目から本町四丁目までの間は一度東へルートを変えている点である。ここには札ノ辻の碑があるが、ここの堀の部分にカーブがあるから、多分このカーブの部分が線路跡なのだろう。また、現在の税務署などがある合同庁舎の西側には「愛媛教育草創の碑」がある。ここには細い道路があって、ここにかつては線路があったのか?と思わされるのだが、私自身はもう少し西側の本町三丁目と若草町の境界線上を走っていたのではないかと考えている。

「わすれかけの街・池田洋三著」によると、現在の本町通りから一軒分東側に線路があって、その東側に師範学校があるようなイラストがある。したがって、そこに線路があったとすれば、ここがちょうど本町三丁目と若草町の境界線(線路は若草町側)となるのである。以前はここの若草町側に「愛媛県総務部」が管理する駐車場と思われる空き地があった。そこから本町三丁目側を見ると、みごとにブロック塀が南北に連なっているのである。しかも、この東側、つまり若草町側は平屋が並ぶ古い住宅が並んでいた。ということは、師範学校の西側に線路があって、その後師範学校跡の中に道路ができて、西側は線路もろとも住宅となったとは考えられないだろうか。ただ、今は駐車場は分譲マンションへ、古い住宅地はかずまるも通っているスポーツセンターへと立て替えられてしまっており、当時の様子をうかがい知ることはできなくなってしまった。

とまあ、勝手な推理をしてみたのだが、私の推理が正しいのかどうかは判らないが、松山電気軌道の路線はそのまま平和通りまで北上して、そこから急に向きを西へと向けて古町駅方面へと向かうのである。

などということをかずまるに話をしたら、今度のスイミングスクールが楽しみなのだそうだ。単純な奴

松山電気軌道は平和通りを古町方面へと路線を西進させて萱町停留所を設置し、古町付近でなんと伊予鉄道をオーバークロスして三津方面へと向かっている。松山電気軌道が伊予鉄道に吸収された後は、道後温泉〜一番町と同じく、二本も線路はいらないとばかり、昭和二年に松山電気軌道側の萱町から三津間が廃止され、代わりに昭和四年に萱町から古町駅へと乗り入れた。

その平和通りの路線も昭和二一年に西堀端〜萱町〜古町間が休止になり、代わって翌年に西堀端〜本町(現在の本町四丁目)間が現在の路線で運行開始している。そういう歴史のためなのかどうかは判らないが、現在も市内電車は本町四丁目だが、バス停は本町のままである。

さて、古町付近の松山電気軌道跡であるが、実は古町駅北側に面白いものが残されている。古町駅北側には留置線に接して踏切があるのだが、そこを西に少々進んですぐに北側へ折れる細い道があって、折れてすぐの宮前川を渡るところに松山電気軌道の橋脚跡と思われるレンガの橋台があるのである。古い地図を見ると、平和通りと萱町の交差点あたりから正明寺の南をかすめて先のレンガ橋へと伸びていたに違いない。

また、レンガ橋からは北西から西の方向へとゆるく曲がりながら続く細い道がある。これが当時の線路跡だったのかもしれない。だが、ここから三津までの間は線路跡らしきものもない。自宅に近いところだし、もう一度町並みを歩いて見てから考察していくことにしようと思う。

あんまりにも推測の部分が多すぎるし・・・

一方、松山に国鉄が伸びてきて開業したのは昭和二年四月三日だが、「松山駅」の名称を巡っていろいろあったにもかかわらず、伊予鉄道は国鉄松山駅営業開始と同時に古町〜国鉄松山駅間を開業させ、昭和四年に萱町方面から国鉄松山駅への直通運転をしている。

このときの古町駅から国鉄松山駅までの線路は、現在の宮田町から駅前通(県道松山港線)を通ったのではなく、そのまま駅前通を突き抜け、現在の松山駅前交番の横にある細い道から松山駅構内に乗り入れていたという。この画期的な国鉄乗り入れは昭和一一年に廃止され、現在の松山駅前に移され、同時に西堀端から大手町経由の路線が松山駅前電停と結ばれている。

松山駅前に乗り入れ続けていれば、典型的な国鉄と私鉄の乗換駅であったろうにと思う。廃止しなければならなかった理由は判らないが、廃線跡と思われる場所には、現在レストラン北斗、トヨタ自動車、そして愛媛銀行がある。
ここで気になるのが、現在は古町から宮田町まで専用軌道でやってきた電車はここから併用軌道となって駅前通を走るが、もし、そのまま道路を斜めに突っ切ると愛媛銀行に当たるという点である。愛媛銀行は勝山町に本店があるが、この本店の場所もかつては伊予鉄道の敷地だったわけで、なにか因果を感じる。

なお、余談だが、伊予鉄道は国鉄松山駅前に一度は乗り入れながらもその後撤退しているが、戦後にも同様に国鉄から乗り入れがあったらしいといううわさがある。で、国鉄としてはホームに乗り入れさせるつもりであったもので、現在松山駅の一番ホームが異様に長い(一一両が入る)のはそういう理由からだというのである。そのうわさがどこまで本当だったのかは知らないが、惜しいと思う一方、乗り入れる方向が悪いなあ、という気がしないでもない。現在二〇一七年の愛媛国体開催をめどにJR松山駅高架が検討されており、再び伊予鉄道の松山駅構内乗り入れと路線延伸問題が出ている。利用者にとって使いやすい構造としていただきたいと思う。

幻の鉄路を思う夏の頃(かずまる父)下手な鉄砲数打ちゃ当たる?

 

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