散策 坊っちゃん列車の時代を巡る

愛 媛 の 散 策

 

坊っちゃん列車の時代を巡る

 

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三 坊っちゃんと一番町界隈

 
三津に上陸した坊っちゃんは、今の三津駅から坊っちゃん列車に乗って松山へと向かう。当時は国鉄もなく、今の松山市駅も当時は堂々と「松山駅」を名乗っていた。国鉄が松山まで伸びてきたのは昭和二年。全国の都道府県庁所在地としては沖縄を除いて最も遅くやってきた。にもかかわらず、当時の国鉄は「松山駅の名前を差し出せ。さもなければ、松山に駅を作らない。」とのたまったのだそうだ。結局は伊予鉄道松山駅は松山市駅として現在にいたっているが、一日の乗降数では現在のJRは松山市駅には遠く及ばない。

三津から松山へ伊予鉄道に乗ってみるとよく判るが、カーブは「まっすぐ行ったらぶつかりますので仕方ないからカーブします」程度で本当にまっすぐに敷かれている。当時はなんにもないからカーブをつくる必要がなかったのだろう。西衣山付近の小刻みなカーブは地峡部のためだろうし、古町駅の大カーブは、多分古町あたりは古い家並みがすでにあったからか、あるいは三津口駅をなるべく人家の近くに作ろうとしたのかは判らないが、かつての線路は今以上に急カーブで現在の萱町六丁目電停古町側あたりに三津口駅があって、そこから古町駅へと向かっていたという。

松山市駅に到着した坊っちゃんは、「それから車をやとって、中学校へ来たら、もう放課後でだれもいない。宿直はちょっと用たしに出たと小使が教えた。ずいぶん気楽な宿直がいるものだ。校長でも尋ねようかと思ったが、くたびれたから、車に乗って宿屋へ連れて行けと車夫に言いつけた。車夫は威勢よく山城屋といううちへ横づけにした。(小説「坊っちゃん」から抜粋)」
坊っちゃんは、松山市駅から人力車で松山中学にやってきた。この松山中学は、現在の西日本電信電話株式会社四国支社のところにあったのだそうだ。現在はそこに碑がある。夏目漱石は明治二八年にこの場所にあった松山中学校で英語を教えた。

中学校へやってきたが、放課後になってしまったので、仕方なく坊っちゃんは旅館「山城屋」へと車を走らせるが、この旅館は、実際に夏目漱石が赴任してきたときに宿泊した「きどや旅館」がモデルになっていると言われている。
その後、「坊っちゃん」は「山嵐」に勧められて、「山城屋」から「町はづれの岡の中腹にある至極閑静な家」に移る。主人は骨董を売買する「いか銀」。その下宿のモデルになっているのが、「裁判所の裏の山の半腹にて眺望絶佳の別天地」、津田保吉の「愛松亭」(小料理屋)である。(松山市教育委員会「俳句の里巡り・城下コース一一番」から抜粋)

さらに、夏目漱石が松山中学校に英語教師として赴任していた時下宿していた上野家の離れを再現したのが愚陀仏庵で、正岡子規と数十日間一緒に暮らしたとされる場所が、現在の松山三越南側にある。
このように、夏目漱石の生活圏は現在の一番町大街道筋であることから、小説「坊っちゃん」もまた、実際には十年後の東京で松山の記憶を手繰り寄せながら書いたとしても、そのあたりがモデルになっている。

さて、ここでそれらの場所を現在の地図で整理してみよう。松山市駅から松山中学まで坊っちゃんは人力車に乗ってやってきたが、ここは市内電車に乗って市役所前電停で下車すればすぐに松山中学の碑がある。余談であるが、ここで間違っても坊っちゃん列車に乗ってはいけない。乗ってしまったら大街道まで停車しない。西日本電信電話株式会社四国支社の北側に広がる勝山つまり松山城の下に愛媛県庁がある。この西日本電信電話株式会社四国支社と県庁の間にある電車通りを一番町というが、西日本電信電話株式会社四国支社を東方向へ二つ目の路地を南へと向かうと、番町小学校の正門へと出て、松風会の句碑がある。そのまままっすぐ南下すると、三番町通りに出るまでにきどや旅館へと行き着く。

ここから愚陀仏庵まで、ちょっと寄り道をしながら歩くと結構面白い。きどや旅館からさらに三番町を越えて南下すると、次の千舟町通りまでの間に河東碧梧桐誕生地の碑、さらにそこから東へと向かって二車線の道を越えたところに大原観山邸跡の碑がある。大原観山と妻重との間にできた長女八重が正岡家に嫁いで正岡子規を生んだ。その正岡子規は河東碧梧桐が一七歳のとき、彼のところへやってきて一緒にキャッチボールをした。つまり、ここが我が国における野球発祥の地と言っても過言ではなかろう。大原観山邸跡からさらに東へ歩いて、大街道の一本手前の道を北上すると、二番町までの間に愚陀仏庵跡の碑へ行き着くことができる。

さらに、愚陀仏庵跡から北上して一番町通りを越えて坂を登っていくと、津田保吉の「愛松亭」つまり「いか銀」へと行くことができる。
このように、松山中学跡から愛松亭跡までは、それこそ昼休みの間にでも巡ることができる距離にあることが判る。

日盛りに街を歩けば歴史あり(かずまる父)そりゃ歴史はあるけど?

 

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四 坊っちゃんと道後鉄道

 
夏目漱石は小説坊っちゃんの中でこれでもかというほど松山を無茶苦茶に書いている。が、その中で住田と呼ばれる道後温泉だけは気に入っていたようだ。主人公坊っちゃんも道後温泉がたいそう気に入っているようで、毎日通っている様子がでてくる。

「今日は、清の手紙で湯に行く時間が遅くなつた。然し毎日行きつけたのを一日でも欠がすのは心持がわるい。汽車にでも乗つて出懸様と、例の赤手拭をぶら下げて停車場迄来ると二三分前に発車した許りで、少々待たなければならぬ。(小説坊っちゃんから引用)」

夏目漱石が松山へやってきた当時、松山には伊予鉄道と道後鉄道が存在した。伊予鉄道は松山から三津間、道後鉄道は現在の大街道から道後温泉と三津口(萱町六丁目)から道後温泉間の二つをもっていた。ただ、厳密に言うと、夏目漱石が松山にやってきたのが明治二八年四月(四月に三津で赤いふんどし?寒くないのか?)、熊本へ赴任したのが翌年三月、道後鉄道が開通したのが明治二八年八月で、一〇月六日に散策集の中で正岡子規と一緒に道後鉄道に乗って道後温泉へ行っている。

「所へ入口で若々しい女の笑声が聞えたから、何心なく振り反って見るとえらい奴が来た。色の白い、ハイカラ頭の、脊の高い美人と、四十五六の奥さんとが並んで切符を売る窓の前に立って居る。おれは美人の形容抔(など)が出来る男でないから何にも云えないが全く美人に相違ない。何だか水晶の珠を香水で暖ためて、掌へ握って見た様な心持ちがした。年寄の方が脊は低い。然し顔はよく似て居るから親子だろう。おれは、や、来たなと思う途端に、うらなり君の事は全然忘れて、若い女の方ばかり見ていた。すると、うらなり君が突然おれの隣から、立ち上がって、そろそろ女の方へ歩行き出したんで、少し驚いた。マドンナじゃないかと思った。三人は切符所の前で軽く挨拶している。遠いから何を云ってるのか分らない。(小説坊っちゃんから引用)」

坊っちゃんとマドンナの接点はこれだけである。遠山のお嬢さんことマドンナはうらなり君の許婚者であったが、父親が亡くなってから生活が苦しくなり、そこに目をつけた赤シャツに奪われ、最終的には九州に転勤させられてしまう。つまり、マドンナは最終的には赤シャツの彼女と言うことになる。
ちなみに、松山市内には観光ボランティア制度があるが、週末には坊っちゃんの登場人物に扮した街角案内人が道後温泉などに立っている。そうすると、どうしても坊っちゃんとマドンナが並んで絵になるわけであって、赤シャツとマドンナが並んだのではイマイチ観光者うけしないのである。以前赤シャツに扮していた街角案内人の方で、まさに観光案内のプロのような人がいた。体型も赤シャツに似ている。仕事の関係で辞められたのが残念だが、彼とマドンナが並んでいて、

お似合い!

と言っても、当のマドンナはそのことを知らないんだよなあ。この現実、夏目漱石はどのように思っているのだろう。まさか、それを考えていたわけじゃないだろうか?と、ふと勘ぐったりしたくなってくる。松山の観光ボランティアの世界では、赤シャツのほうが転勤してしまったようだ。

夏目漱石の「徹底して松山の地名を出さない」攻撃は、道後温泉を「住田」といい、さらに温泉の近くを流れている川を「野芹(のぜり)川」としている。道後から「湯の町をふりかえった」りしながら帰っていた坊っちゃんは、この野芹川に出たところで、赤シャツとマドンナが歩いているのを偶然見つけてストーカーする。というより、坊っちゃんは最後までこの二人だとは知らなかったようだ。坊っちゃんとマドンナの接点はこれだけで、うらなり君が転勤した後はマドンナという名も出てこなくなる。

「徹底して松山の地名を出さない」攻撃、考えてみれば、親友正岡子規のふるさとをボロクソに書いている訳だから、意図的に地名を出さないようにしたのだろう。事実、小説発表後は正岡子規に「君のふるさとを悪く書いてすまない」という旨の書簡を送っているという。

だが、人はいいことを思うよりも悪いことを思うほうが記憶に残るものらしい。もし、小説坊っちゃんが「松山はなんていい街なんだ」という内容だったら、ここまで松山は小説坊っちゃんを観光スポットにできただろうか。それより「坊っちゃん」という名がここまで愛されたのだろうか。まさに全国に誇れる「観光ブランド」である。

最近各地方自治体が競ってその自治体をテーマにした映画やドラマなどを誘致している。が、誘致したという以上、作家のほうもあんまりはボロクソな内容にはできない。どうしても、多少はヨイショをしてしまうのは仕方ないだろう。ただ、内容はともかくとして、放映されたときには話題性があったとしても、それはそこで暮らす住民の自己満足で終わってないか?一時の観光ポスターだという考え方もあるが、それにしては高いポスターである。

全国的見地にたてば、夏目漱石の作品は「我輩は猫である」「こゝろ」となるのだろうが、幸い松山には道後温泉がある。だから、道後温泉のパンレットを見た旅行者は、そこで間違いなく小説坊っちゃんを知る。夏目漱石はそこまで考えて坊っちゃんを書いたのだろうか。

川床に百年浸して色あせず(かずまる父)川床にぼっちゃーーんと(失礼!)

 

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五 古町考察

 
その「徹底して松山の地名を出さない」攻撃の中で、唯一松山の地名が出てくるところがある。

「おれは小使にちょっと出てくると云ったら、何かご用ですかと聞くから、用じゃない、温泉へはいるんだと答えて、さっさと出掛けた。赤手拭は宿へ忘れて来たのが残念だが今日は先方で借りるとしよう。それからかなりゆるりと、出たりはいったりして、ようやく日暮方になったから、汽車へ乗って古町の停車場まで来て下りた。学校まではこれから四丁(約四五○メートル)だ。訳はないとあるき出すと、向うから狸が来た。狸はこれからこの汽車で温泉へ行こうと云う計画なんだろう。(中略)竪町の四つ角までくると今度は山嵐に出っ喰わした。(小説「坊っちゃん」から抜粋)」

そう!古町である。伊予鉄道は明治二一年に開業した後、中間駅として存在した三津口駅は翌年七月に古町駅に改称している。この古町駅は当初は現在の萱町六丁目付近にあったとされるのだが、松山電気軌道が開業した時にはすでに現在の古町駅にあったらしい。だから夏目漱石が松山へやってきたときには古町駅となっていたことになる。

しかし、なぜ古町なのだろう。まるでノストラダムスの「一九九九年七の月」のようだ。夏目漱石が坊っちゃんを書いたのは、松山を離れてから一一年近くたった明治四〇年一月である。普通に考えれば、本来の生活圏である一番町の名を別の地名にしようとして、誤ってもうひとつのルートの終着駅である古町を使ってしまったか、小説はあくまでフィクションだからとして、一番町が生活圏であったのにわざわざ古町が物語の舞台であるとしたかどちらかである。

実際、夏目漱石の文章は、先の三津に上陸したときに、松山まで八キロもあるといいながら、坊っちゃん列車にたったの五分しか乗らなかったという矛盾のとおり、ページが変われば表記が変わると言われているのだそうだ。そういえば、坊っちゃんが最初に学校に行ったときには、「四つ角を二三度曲がったらすぐ門の前へ出た。」とあるから、「きどや旅館」から西日本電信電話株式会社四国支社までの距離を考えると、そんなような気がする。だから、坊っちゃんが宿直の時に道後温泉から帰ってきたときの街の風景は、ここの場合だけ古町駅という名前を使ったんだ、と考えるのがよさそうである。

じゃあ、なぜこのときだけ古町駅という名称を使ったのか。まじめな先生方は「一番町を他の地名にしようとして、そのときだけそういう気分になったのだろう」という。だが、私は夏目漱石がこのときだけは、「小説はあくまでフィクションだから、一番町が生活圏であったのだが、ここでは古町が物語の舞台であるとした」と考える。つまり、本来一番町界隈で生活していたにもかかわらず、十年後に執筆をしていて、この場面の情景を描くときに、あえて一番町ではなく、古町の町並みを描いたのではないかと思うのである。

実は、坊っちゃんを読んでいて、もうひとつ疑問がある。これは坊っちゃんが最初に学校に行った日の帰りのことである。

「それから学校の門を出て、すぐ宿へ帰ろうと思ったが、帰ったって仕方がないから、少し町を散歩してやろうと思って、無暗に足の向く方をあるき散らした。県庁も見た。古い前世紀の建築である。(小説「坊っちゃん」から抜粋)」

松山中学は現在の西日本電信電話株式会社四国支社の場所にある。その北側には国道一一号を挟んで愛媛県庁がある。県庁は当時もそこにあった。なのに「県庁も見た」はないだろうと思う。第一おまえは昨日ここにやってきて、県庁が見えなかったのか!ということになる。いくらなんでも、もう少し県庁が離れていなければ矛盾する表現である。あるいは、そこに県庁があったのではまずいのか・・・そして、先ほどの仮説が成り立つのである。

実は、小説の設定上の松山中学は古町駅界隈ではないか?

松山に赴任したときには、とりあえず西日本電信電話株式会社四国支社ときどや旅館を設定した。「いか銀」も一番町を思い描いた。その後のうらなり君の母親に紹介された下車はよく判らない。が、これはあくまでフィクションだから、学校からの帰りの町並みは古町界隈をモデルにした。だから、ついでに宿直のときも古町駅界隈をモデルにした。ということは考えられないだろうか。

坊っちゃんの生活圏は一番町筋であったことは間違いないが、夏目漱石が執筆するうえで、一番町の情景をあえて古町付近の町並みに差し替えた、というのが私の説である。どのみち松山の街をボロクソに書いている訳だから、親友正岡子規らが生活していた一番町の風景を露骨に書きたくなかったのではないだろうか。

というわけで、この小説にでてくるわずかな地名を元に、ある仮説を立ててみた。古町駅から約四五○メートルがどのあたりになるのかを調べてみる。古町駅の位置から考えてみると、気になるものがある。それは、古町駅から五○○メートルほど南東にある税務署などが入る若草合同庁舎である。現在そこには「愛媛教育草創の碑」があり、この位置に「師範学校」があったことを示す。「師範学校」は小説にもでてくるし、坊っちゃんが喧嘩をしたところでもある。

次に、「竪町の四つ角」である。松山には「竪町」という地名は存在していない。ということは、作者はどこか過去の記憶の中から引用してきたことになる。というわけで、「竪町」という意味を調べてみた。

昔は東西の道を「横町」、南北の道を「立町」とか「縦町」といい、城下町であった都市には現在も 「立町」「竪町」とか「魚の棚」などの地名が現在も使われていることが多くあり、城門から南に縦に通る道の意味だという。(「昔の中の棚」サイトから引用)

「竪町」の実例としては、石川県金沢市竪町商店街がある。ここは、城の南東側に多少斜めになっているが、南北に連なる商店街である。
城門から南へと伸びる道といえば、松山の場合は裁判所から南へと伸びる道があるから一番町説が有利である。が、なんと古い地図を見ていると、古町と萱町との間に「魚町」というのがあるではないか。

古町駅を出た坊っちゃんは、そのあたりを歩きながら、実は「師範学校」辺りにあった中学校へと戻った。この場所は松山城のある勝山のちょうど西側、問題の県庁は南側にある。ゆっくり歩けば十分はかからないが、西堀端や南掘端あたりをうろつけば、十五分はかかる。だから、「県庁も見た。古い前世紀の建築である」という文面にぴったりではないか。

ひょっとすると、三津から坊っちゃん列車に乗った坊っちゃんは古町駅に到着したのかもしれない。この古町駅は道後からの線路の他に、三津〜松山間、つまり最初に坊っちゃんが三津から松山へやってきた時に途中の駅として存在していた。どんどん、想像が広がってくるではないか。古町に降り立った坊っちゃんは人力車で「師範学校」へ行って、放課後だったから「きどや旅館」へと行った。

ただ、こう言い切ってしまうと、翌日「きどや旅館」から学校までの記述がおかしくなる。また、「城下から汽車なら十分ばかり、歩いて三十分で行かれる」とあり、これは現在の大街道から道後温泉までの所要時間と合うのであって、古町からならば十分では行かれない。が、先ほど述べたように「坊っちゃんの生活圏は一番町筋であったことは間違いないが、夏目漱石が執筆するうえで、一番町の情景をあえて古町付近の町並みに差し替えている」と考えているのだから、あえてリアルに考察をしたりするつもりはない。

ただ、夏目漱石が古町の町並みを持ち出したかについては、彼がこのあたりに結構足を運んでいるフシがあるからである。

松前町五丁目に大法寺というお寺がある。「伊予細見」サイトをみると、吉田蔵澤という墨竹の画人がでてくる。「蔵澤は享和二年(一八〇三年)八一歳で没した。墓は松山市魚町(本町五丁目)の日蓮宗大法寺にある。」「松山地方では、今でも家宝として蔵澤の竹遺墨を秘蔵する家が多いと言われる」「子規が愛し、漱石がその魅力のとりこになった蔵澤」とある。実際には大法寺には吉田蔵澤の墓があるわけで、夏目漱石は蔵澤の竹遺墨を秘蔵する家で見たはずである。が、多分、大法寺の吉田蔵澤の墓にも来たのではないか。それだけ思い入れのある場所である。しかも、この大法寺のある場所が松山市魚町(本町五丁目)となっている。

そこで、さきほどの「竪町の四つ角」がでてくるのである。ひねりをかけて「魚町」から「魚の棚」そして「竪町」と連想させたとしても不思議ではないのではないか。まあ、あくまで私個人の見解なのだが、こういう発見があったりするから、散策はやめられない。

でも、ここまで来ると単に強引矢の如しとしか思えない。が、いいではないか、これはフィクションなんだから!

夏至の頃坊っちゃん探して古町ゆく(かずまる父)「困っちまう」古町と詠んだら親父ギャグ?って、それは川柳か?

 

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