松山句碑めぐり(小野)

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【01】平井町 伊予鉄平井駅(小野

【01】茸狩や浅き山女連連(正岡子規)

2009年6月14日行軍D



【02】巡礼能夢を冷春や松の露(正岡子規)

2005年6月25日行軍A(俳句の里・城東(8)、旧城南(6))

久 米から平井までは電車で移動する。平井駅は旧国道11号に近いが、駅はその反対側の旧道の方を向いている。駅前から旧道にでたところに池があるが、東側へ 150メートルほどに「兜松」(通称さがり松)があって、おへんろさんや金刀比羅参りの旅人はこの松の下で一休みしていたという。こちらの旧道の方が歴史 があるらしい。
 正岡子規は明治24年8月19日から21日まで、友人と2人で温泉郡川内町の唐岬、白猪の滝を見物に行って、そのときの情景を詠んだものと言う。それにしても、これらの滝まで2泊3日というのは、のんびりした時代だと思う。

【02】平井町 明星院小野

【03】ほとゝぎす鳴く山門に着きにけり(波多野二美)

2006年5月30日行軍B

明 星院は伊予国三観音である。境内を回っていると先代住職の奥さんが出てこられて「どちらから来られました?」と尋ねる。ご主人が最近なくなられて、息子さ んが継いでいるものの、どうも別の仕事をもっておられるようだ。「時代が変わりましたので」とおっしゃる奥さんの言葉が印象的だった。
波多野二美は奇しくも、さきほどの十六日桜で「永久眠る孝子ざくらのそのほとり」と詠んでおり、句碑はロシア人墓地にある。ただ、のこり1碑が見つからず諦める。

【03】平井町 千福寺小野

【04】火や鉦遠里小野の虫送嬉しきも故郷なり悲しきも故郷なり悲しきにつけても嬉しきは故郷なり(正岡子規)

2005年6月25日行軍A(俳句の里・城東(7)、旧城南(5))

平井駅から東へ行くと千福寺にでる。ひょっとして、先ほどの松はこの辺りにあったものだろうか。注意してしいたのだが、それらしき松は見当たらなかった。ここの近くにある公園でしばし休憩、でも暑かった。
遠里小野は大阪市墨江町に今もあるらしい。双方の「小野」という地名からこの句ができたとされている。

【04】南梅本町 梅盛寺跡小野

【05】梅盛寺を追慕古跡保存を祈里て真心の通う道ありその道は古きえにしにかようみちかも(聖護院門跡大僧正正光)

2006年5月30日行軍B

梅 盛寺跡は、このシリーズ第1回目に一度近くまでやってきたが、場所が特定できず諦めている。「いせきこたろう」氏サイトでは「新池の南側に普門山梅盛寺が あった」とあり、それだけを頼りに再びやってきた。だが、新池というのはいかにもどこにでもありそうだし、事実近くにもうひとつ新池がある。両方行ってみ る覚悟で、まずは生目神社手前から池の西側へと折れる。途中日吉神社が見えてくるがあえて無視する。そして、一度新池のほとりに登って南側を見る。確かに なにか句碑らしきものが見える。はたして新池をぐるりと回ったところで、梅盛寺跡を見つける。
梅盛寺については、その中の句碑に「普門山梅盛寺跡元禄2年12月10日遷宮入仏 昭和巳酉12月建」「真心の通うみちありその道は古き元にしかようみち かも 聖護院門跡 大僧正光徹 九十翁 書 梅盛寺を追慕古跡保存を祝して」「當山開基 権大僧都寛 清太郎坊法印位 仁治3年2月11日」と書かれてい るから、多分そういう歴史を持っているんだろうと思うのだが、「権大僧都寛」というからには、かつては力を持っていたお寺だったのだろう。

【05】南梅本町 生目神社小野

【06】聖火今日日本に燃ゆる子規忌か奈(久保水々)

2005年7月16日行軍B

久 保水々は明治30年伊予市三谷に生まれ、酒井黙禅を師とし、これは昭和39年10月の東京オリンピック東京大会と9月19日の子規忌を偲んで詠んだものだ という。酒井黙禅といえば、先の「俳句の里巡り」最終地である大尺寺跡に句碑があった。彼の句碑がここにあるのは、そういう事情なのかもしれない。

【06】北梅本町 地蔵松大尺寺跡小野

【07】松三代北向地蔵秋涼し(酒井黙禅)

2005年6月25日行軍A(俳句の里・城東(9)、旧城南(7))

平 井からバスに乗って、自衛隊前バス停で下車する。このあたりは大尺寺庵とか大尺寺橋など、いたるところに大尺寺の名が見えるが、句碑としては大尺寺跡とい う。つまり、現在は存在しない寺のようである。旧国道11号はこの辺りは丘陵部を登っていっている。つまり、目的地大尺寺跡というのは、ここから下ってい くことになりそうだ。ということは、帰りのほうが上り坂になる。
そんなことを今議論しても仕方がないので、ともかく大尺寺庵をめざしたのだが、みごとに空振り。しかも、かずまるが靴擦れを起こした。仕方なく、肩車をし て大尺寺橋へと向かう。が、このあたりは結構アップダウンが多い。大尺寺庵は河岸段丘の上にあって、ここから道を下って、川沿いに登って大尺寺橋へと出 る。
大尺寺橋へでたところで、考え込む。ここにこの名前の橋があるということは、寺はこのどちらかである。が、どちらへ行っても坂を登る。とりあえず、旧国道 から遠い方向へと向かう。が、いくら歩いても手がかりがない。すでに予定時刻をオーバーしている。かずまるが重い。というところで、一度松山市の住宅地図 を取り出す。このあたりの地図は松山市で最も東にあるせいか地図が細々と小さく書かれている。ふと、もうひとつ「大尺寺」の名があったことを思い出した。 それが大尺寺公園であり、先ほどの大尺寺橋から反対側への道である。これで失敗したら、今日は諦めなければならない。
最後の勘は的中した。さきほどの大尺寺庵からまっすぐに川へと降りず、道路沿いに迂回して大尺寺橋へと向かっていれば、ここへ来れたはずである。が、まあいい。いよいよ最終目的地へと到着した。
大尺寺の近くにあった地蔵は右の耳がないことから片耳地蔵とよばれ、耳の病気にかかったとき祈願すると病気が治ったと言う。松山赤十字病院名誉院長酒井黙禅だからこその句か。
本来の大尺寺はすでになく、句碑が立っているだけであった。これで俳句の里巡り全133箇所全てを制覇!!が、我々には最後の仕事があった。バスの時刻が 迫っている。すでに一便遅れている。バスは30分毎に走っているが、疲れた状態で暑い中、30分間も待つのは好ましくない。かずまるを背負って、ただひた すら走って、バス停へ着いたときには、すぐ後ろにバスが見えていた。

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