松山句碑めぐり(味酒)

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【01】味酒町2丁目 大林寺六地蔵横(味酒)

【01】母を葬るのうたうき雲はありともわかぬ大空の月かげよりふるしぐれかなきみがはかばにきゞくありきみがはかばにさかきありくさばにつゆはしげくしておもか らずやはそのしるしいつかへりこんわがはゝよ紅羅ひく子もますらをもみなちりひじとなるものをあゝさめたまふことなかれはるははなさきはなちりてきみがは かばにかゝるともなつはみだるゝほたるびのきみがはかばにとべるともあきはさみしきあきさめのきみがはかばにそゝぐともふゆはましろにゆきじものきみがは かばにこほるともとほきねむりのゆめまくらおそるゝなかれわがはゝよ(島崎藤村)

2005年8月4日行軍B

な んちゅう長い詩か。長いだけなら私でも書けるぞ。というより、なぜ島崎藤村?いよ観ネットで調べると、「宇和島出身の中野逍遥の死後、学友達によってまと められた「逍遥遺稿」が島崎藤村らに強い影響を与えた。」と書かれている。でも、なぜ大林寺?という気がしないでもない。

【02】味酒町3丁目 阿沼美神社味酒

【02】浮雲やまた降雪の少しつゝ(栗田樗堂題)

2003年11月8日行軍A(俳句の里・城下(45))

栗田樗堂題といえば、先日回った庚申庵を建てた人である。また、阿沼美神社は松山城のある勝山の山頂にあった神社で、勝山三島大明神とも呼ばれていたという。結局ここも三島神社のようだ。


【03】さまさまの事おもひ出す桜かな(松尾はせを)

2003年11月8日行軍A(俳句の里・城下(44))

ここでいう「松尾はせを」とは松尾芭蕉である。以前新立のお寺に松尾芭蕉の碑があって、松山の地でも松尾芭蕉に思いをはせる人が多いとあったが、これもそ のひとつだろうか。栗田樗堂題は小林一茶が訪ねてきたとあるのだから、彼の碑があった方が落ち着くような気がしないでもない。


【04】者流もやゝ氣し支とゝの不月と梅(松尾芭蕉)

2009年6月13日行軍D

これは追加碑。

【03】萱町4丁目 大三島神社味酒

【05】萱町や裏へまはれば青簾(正岡子規)

2003年11月3日行軍A(俳句の里・城下(46))

大 三島神社は久万ノ台にもある。松山市内には三島神社、大三島神社、素鵞神社などがたくさんある。だが、11月の落日は早い。急がなければ、今日中に七箇所 は行けない。次の阿沼美神社にたどり着いたときには、かなり暗くなっていた。すでに北側の碑は暗くて撮影できない。タイムオーバーである。まあ、仕方ある まい。

【04】味酒町2丁目 庚申庵味酒

【06】庚申庵

2003年11月3日行軍A(俳句の里・城下(43))

庚 申庵は、俳人栗田樗堂が、寛政12年(1800)、52歳の時に建てた庵で、昭和24年9月17日、県指定文化財・記念物の指定を受けた。最近立て替えら れ、松山観光を巡ることのできるボンネットバス「マドンナバス」も立ち寄るようになった(現在は廃止)。すでに、暗くなっており、我々も完全に開き 直って庚申庵でしばしくつろぐ。ここだけに長時間居座るような場所ではないが、結構情緒のあるところである。

【05】松前町4丁目 法泉寺味酒

【07】慶長乃昔を偲ぶ天守閣(山口双葉)

2005年7月31日行軍B

法 泉寺は,慶長7年加藤嘉明が松山築城に祭し伊予国松前から移転させたという。この他にも城の守りなどを考えて、移転された寺は多いから納得のいくところで ある。ここの地名を松前町というのもその関係だろうかと思う。「愛媛大学図書館」サイトでは、「昭和35年7月吉日、松山市道後南町、双葉、山口初治郎 識」と書かれてあるから、多分山口初治郎氏が建立したのであろう。

【06】松前町5丁目 大法寺味酒

【08】日尓華を友奈不蓮の力可南(力友蔵)

2005年7月31日行軍B

力 友蔵という人はなかなか判らないのだが、「伊予細見」サイトをみると、吉田蔵澤という墨竹の画人がでてくる。「蔵澤は享和2年(1803年)81歳で没し た。墓は松山市魚町(本町5丁目)の日蓮宗大法寺にある。」「子規が愛し、漱石がその魅力のとりこになった蔵澤」とある。「力友蔵」と「吉田蔵」の接点は 「蔵」しかないから、関係があるのかどうかは判らない。だが、どこかで聞いた言葉が出てきてないか?
「小説坊っちゃん」の中で、「ようやく日暮方になったから、汽車へ乗って古町の停車場まで来て下りた。学校まではこれから4丁(約450メートル)だ。訳 はないとあるき出すと、向うから狸が来た。狸はこれからこの汽車で温泉へ行こうと云う計画なんだろう。(中略)竪町の四つ角までくると今度は山嵐に出っ喰 わした。」とあるが、その「竪町の四つ角」のことで持論を述べて、まじめな先生方から批判されたことがある。「昔は東西の道を「横町」、南北の道を「立 町」とか「縦町」といい、城下町であった都市には現在も 「立町」「竪町」とか「魚の棚」などの地名が現在も使われていることが多くあり、城門から南に縦に通る道の意味だという。(昔の中の棚サイトから引用)」
夏目漱石はなんにも考えずに「古町」とか「竪町の四つ角」とかいう地名を使ったのではない。「小説坊っちゃん」の中で、坊っちゃんは本当に古町で下車をし たのかについて、夏目漱石が意図的に書いたのかどうかは判らないにせよ、明らかにこのあたりの風景を思い描きながら書いたとしか思えない。まあ、あくまで 私個人の見解なのだが、こういう発見があったりするから、散策はやめられない。

【07】萱町6丁目 松山市保険センター前味酒

【09】三津口を又一人行く袷哉(正岡子規)

2003年11月3日行軍A(俳句の里・城下(47))

伊予鉄道が松山から三津まで鉄路を敷いたのは明治21年10月、その頃の時刻表が「子規堂」の坊っちゃん列車客車の中にあるが、三津口という駅がある。この三津口はその名のとおり、三津への入口であった。
当時の三津口駅は現在の城北線萱町六丁目の古町側ホーム付近だったという。明治28年に道後鉄道が「三津口」に終着駅をつくったのが、城北線萱町六丁目の 本町六丁目側ホーム付近。その後松山電気鉄道が道後温泉〜南堀端〜本町〜古町〜三津間を開業したときには、すでに伊予鉄道の古町駅は現在の場所に移転して いた。伊予鉄道と松山電気鉄道が競合している様子の絵を見ることがあるが、当時単線だった郊外電車側に坊っちゃん列車、萱町6丁目側の線路に電車、そして その上を立体交差で抜ける松山電気鉄道の電車が印象的である。その場所は現在の古町駅北側にある踏切であって、北向きに見たものであると思って間違いある まい。
さて、小説坊っちゃんの中では、「それからかなりゆるりと、出たりはいったりして、ようやく日暮方になったから、汽車へ乗って古町の停車場まで来て下り た。学校まではこれから4丁(約450メートル)だ。訳はないとあるき出すと、向うから狸が来た。狸はこれからこの汽車で温泉へ行こうと云う計画なんだろ う。」と書かれている。この古町というのは一体どこだろうか。
当時、道後鉄道は道後温泉〜大街道間と道後温泉〜城北経由三津口間に鉄道を敷いている。坊っちゃんの住んでいたところは一番町界隈だから、大街道のはずな のだが、なぜかここで古町と出てくる。小説坊っちゃんの中では、松山に関する現実の地名は出てこない。道後温泉は「住田」という名前だし、とにかく、徹底 して松山という地名は出てこない。まあ、徹底的にボロくそに書いているから、出てもらっても困る。しかし、なぜ「古町」なのか。

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