松山句碑めぐり(堀江)

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【01】福角町 四ツ堂橋近く(堀江)

【01】埋れ木になりつゝ川の猫柳(白鷹火風)

2005年9月3日行軍B

県道長井方堀江線を山手方面へと走る。長井方と書いて「なんかた」と読む。白鷹火風は本名高興、大正8年12月26日生まれ、昭和21年から31年まで国立療養所入院とあるから結核かもしれない。川本臥風が主宰する俳誌「いたどり」に参加している

【02】福角町 ホテル清泉前堀江

【02】大伊豫の友國の湯にひたりつつほのほのとしてものをこそおもへ(吉井勇)

2005年5月29日行軍A(俳句の里・城北(13)、旧城北(17))

吉井勇は明治19年東京生まれ、碑によると、昭和8年に離婚した失意から高知や瀬戸内を放浪したとされている。「友國の湯」とは現在の権現温泉とされている。失意の時にはここへ来て湯に浸かるのが良いのかもしれない。

【03】権現町 県立盲老人ホーム権現荘堀江

【03】念ずれば花ひらく(坂村眞民)

2005年9月3日行軍B

坂を降りきると、次の盲老人ホーム権現荘までは少々登る。先ほどの坂のダメージが大きく、少しの坂でも苦しい。で、目的地に着くと・・・この碑かい。

【04】東大栗町 医座寺堀江

【04】白雪乃たえまにみ遊留山松能美登里は空の色とこそ之連(宮満良親王)

2005年9月3日行軍B

医座寺は伊予十二薬師の2番目、丑の位置にある。お寺の個人的ホームページも持っている。なかなか気さくで進歩的な方のようである。が、ホームページを見ても、医座寺との関係はよく判らない。宮満良親王はどちらかといえば、窪野にある正八幡神社のイメージがあるのだが。

【05】東大栗町 医座寺下県道脇堀江

【05】母の前に着くまでは帰路秋の暮(光宗篁)

2005年9月3日行軍B

途中、多分あの山の中腹あたりまで登ることになるのだろう。と考えた私は甘かった。山の中腹などではなく、山の向こう側が目的地らしい。そのあたりまで来 て、実は自分が行こうとしているところは、自転車ではちょっと無理ではないか?と思い始めた。が、もう遅い。仕方がないから、途中で自転車を降り、押しな がら歩く。歩くこと1時間近く、ようやく医座寺が見えてきた。というところで、道路脇に堀江六番の碑があった。

【06】福角町 東林寺堀江

【06】降りに降る石をも育つ若葉雨(梵子)

2005年9月3日行軍B

東林寺は伊予十二薬師の1番目、子の位置にある。真言宗智山派で厄除けの寺とされている。
 ここからが問題のコースである。右手に山が見えるのだが、多分あの山の中腹あたりまで登ることになるのだろうと思った私は甘かった。

【07】堀江町 浄福寺堀江

【07】ものゝふの河豚(ふぐ)にくはるゝ悲しさよ(正岡子規)

2004年9月20日行軍A(俳句の里・城北(12)、旧城北(16))

「俳句の里巡り」にあたり、「城下コース」と「道後コース」は、松山市教育委員会がサイト内である程度の情報を提供してくれているが、その他のコースは、 JR松山駅前の地図だけを参考にして巡っている。その中で、碑の隣にある説明文を書いた白い板は大変参考になる。ここの説明文は、なんと、これまでで初め て手書き説明文を見た。浄福寺の住職が書いたものだろうか。
それによると、明治25年12月にフランスで建造した水雷砲艦千嶋とイギリス商船が興居島と睦月島の間で衝突、沈没した時の句なのだそうだ。
先ほどの浄福寺は、海に近いところにある。
ちなみに、現在「お遊びの25キロ試走」と称して走る場合、8キロ過ぎにこのお寺で左折する。

【08堀江町 幸乃神社堀江

【08】ゆく希ふも可へらん時も玉ぼ古乃悲支毛の神にいのれとぞ思ふ(紀貫之)

2005年9月10日行軍B

9月10日(土)、かずまると北条鹿島まで片道15五キロのサイクリングに出かけることにした。今年か来年あたり、妻に今治まで2台分の自転車を積んでもらって、かずまると2人で松山までサイクリングしたいと考えているので、今日はその前哨戦である。
順調に進んで、旧北条市との境で海岸線に出る。さて、実は以前から堀江九番幸乃神社が見当たらないのである。一応神社だしと、住宅地図を何度探しても出て いない。一方、毎日今治までJR特急で通勤していて、堀江を過ぎて海岸線に出たところの反対側に祠があるのが以前から気になっていた。一度この祠を確認し てみたい。それで違っていたら諦めよう。ひょっとすると、北条鹿島へ行こうなどというのは、単に言い逃れの理屈だったのかもしれない。ほとんど執念でやっ てきたのであった。そして、結果は・・・
もう一度言おう。これは執念である、自画自賛したい。ほとんど偶然かもしれないが・・・ちょうど、そんな我々を祝福するように、JR特急が脇をすり抜けていく。
 紀貫之の詩の中には、「郭公人まつ山に・・・」とか「時鳥人まつ山に・・・」というものがある。この「まつ」とは人を待つという意味のほかに、ひょっとすると「松山」という地名を意味するのではないかという説があるそうだ。それで、この句碑がここにあるのだろうか。

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